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矢沢永吉における「忍耐力」

思考は現実化する』では、“忍耐力”について次のように述べています。

【忍耐力を身につける】
▼明確な目標が忍耐力を生む。忍耐力は前進するための原動力である。
▼願望から金銭的な価値を生み出すためには、忍耐力は不可欠な要素である。その忍耐力の基礎となるのが「意思の力」だ。
▼莫大な財産を築いてきた人たちは、強固な意思と決してあきらめない強い願望を持っている人々なのである。
▼忍耐力の欠如の最も簡単な克服法は、自分の目標や願望に心を集中し、その鮮明なイメージを心に浮かべること。
プラスアルファの魔法・・・一センチ余分に進む・・・自分のなすべきこと以上のことを進んでやろうとする積極性が必要。

矢沢永吉の人生はまさに、「明確な目標が忍耐力を生む」、「忍耐力は前進するための原動力」、「忍耐力の基礎となるのが意思の力」の典型でした。

    • 全部終わった ひとりポツンと残った その時『最後の恋人』って歌ができた

オレは戻るところがなかった オレのバンドは オレの汗で始まり オレの匂いで終わった
ヤマトは解散を決めたわけよ。
考えてみると、オレのまわり、オレ以外のヤツらはみんな暖かかったよ。お父さん、お母さん、ちゃんといてね。帰るとこがある。
オレなんて、チリ紙交換から帰って即、集まってくりから、きたないカッコしてる。ホント、みじめ。
オレ、まだあのセリフ言えるよ。こちらは、チリ紙交換・・・。映画館の場内放送も全部覚えてる。

      • 挫折感の中で 抜けだすための必死の動き バス賃六十円どうする

ヤマトが終わって、オレは、初めて弱気になった。ほんと、挫折感がガーッときてね、ぶちのめされた感じだった。
もう、ホントに裸よ。どう思われてもいいから、やりなおそう、と。
バンドがなくてメシも食えない時期だよ。収入がないんだもの。米を、女房が少しずつ実家から持ってきてた。
アイスクリーム屋にアルバイトに行ったんだ。雇ってくれたよ、一日二千円。アイスクリームの積み降ろしのバイトなんだけどね。
それ、五日間働いたら、一万円になったわけ。その時は、もう、うちはパンク寸前なわけよ。社長に言ってね、一万円だけ前借りさせてもらうことにした。よっぽど困ってると思ったんだろうね。五日間働いて五日分くれというんだから。何も言わずに、一万円くれたよ。
オレ、その五日間で、昼メシってもの持って行けないわけじゃない。金ない、米ないんだもの。
昼の時間になったら、事務所で新聞読んでるわけ。昼休みが一時間あったから。みんなは外で食ったり、弁当箱広げて食ったりね。
オレ、新聞読んでるフリしてた。それ、誰か気づいたのね、「あれ、矢沢君。昼だけど、どうしたの」
「あ、ああ、昼ですか」ってオレ。
「ごはんは?」「あ、ぼく外食ですから」って、外に出て、近所の公園ブラブラして、始業のサイレンが鳴るのを待つ。
で、いかにも食べたという顔して戻ってくる。

        • でもさ、人間は、ある程度キツイ目にあわなきゃいかんのよ。萎縮しちゃうやつもいるけど、バイタリティになる。なにくそ、冗談じゃない。そう思えるだけ、オレは幸せだったかもしれないね。これは、何かもっと落ちこんじゃって、挫折してもおかしくないテーマよ。よくある話じゃない。でも、オレ、忘れてない。ガキの頃からの屈辱は忘れない。

ソロでデビューした当初もキツイ状況でした。キャロル時代からのファンの中には激しく矢沢を批判する人々もいました。

「矢沢はオカマになった」、「矢沢は死んだ」・・・。
だが、矢沢は変化を恐れず、批判をものともしない勇気と忍耐力で乗り切りました。

‘75年のファーストツアーの初日の京都会館の公演では怒声が鳴り響いたといいます。コンサートの評判は散々でした。

同じツアーの10月7日に行われた佐世保市民会館は1500人のキャパに対して、売れたチケットはわずか100枚。スタッフが雨の中、タダ券を撒いたたのだが、それでも観客数は200人。侮辱された悔しさに耐えて矢沢は200人のお客さんの前で最高のステージをやって、自分なりに勝手に“リメンバー佐世保”というスローガンを作りました。

その2年後の佐世保でのコンサートは超満員。矢沢はそうやって、逆境を乗り越えてきています。不利な状況をエネルギーにして、進んできています。

『思考は現実化する』 ナポレオン・ヒル(著)
『矢沢永吉激論集 成りあがり』  矢沢永吉(著)

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