前回のコラムに書いた安宅和人氏の「AIの不都合な真実」について、もう少し考えてみたいと思います。
安宅氏はAIの不都合な真実によって「仕事はなくならない」としています。
一方、「47パーセントの仕事が消えてなくなる」方向に進むと考える説。・・・例えば、最近出版された第4次産業革命関連の本では、そのような岐路に立つ仕事の例として野球の審判をあげていました。次のように書いています。
『 いまでもきわどい判定は、審判がビデオを見て行われるが、ならば、全部ビデオで判定できるようになれば審判はいらなくなる。AIに野球のルールを覚えさせれば判定はできる。
審判の役割で判定以外に何があるかと考えると、乱闘騒ぎが起きたときに止める役割がある。でもその役割だけならば、屈強なガードマンを何人か待機させておけばすんでしまうだろう。 』
スポーツファンとしては、少しがっかりするあまりに割り切ったコメントです。
審判のいない屈強なガードマンに守られた殺伐とした野球の試合を観に行く気になるでしょうか?野球の審判は試合全体のコンダクターの役割も果たしていると思います。特に高校野球ではそれを強く感じます。
選手、審判、観客(サポーター)が一体となって場をつくるのがスポーツ会場です。審判の微妙な判定に騒然となったり、ルールに従わない選手や監督に退場命令がでたり、試合の面白さや興奮度合いは審判がつくりだす場合も多くあります。
超精密な判定より、その時の勢いによって判断する方が正解の場合もあるでしょう。相撲の物言いの判定ではよき見られるケースです。
「AIの不都合な真実」で述べる次の要因により、審判の代わりにAIを導入すのはスポーツの面白みを減退させてしまうと思います。
- 意思がなく、人間のように知覚できない
- 枠組みをデザインできない
- ヒラメキがない
- 人間を動かす力がない
特に野球やサッカーのような大衆スポーツでは、AIは誤審の防止の役割だけに止めておくべきと私は考えます。